| 作品情報 |
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20世紀を変えた電気通信技術に贈られる技術界のノーベル賞「IEEE賞」。2000年の受賞は、日本が生んだ世界最大の気象レーダー「富士山レーダー」に決まった。日本列島を台風から守るため、富士山頂に建設された巨大レーダーは、あらゆる意味で常識破りなプロジェクトによる産物だった。入札制度を無視して強行された「気象庁の官民プロジェクト」結成、標高3.700メートルという史上例のない高地での大規模土木工事。そして、乱気流が渦巻く世界有数の危険空域・富士山頂への巨大レーダー空輸など。昭和39年8月15日、元ゼロ戦パイロットが熟練の操縦技術でヘリコプターを操り、620kgにおよぶ巨大レーダーを富士山頂に送り届けることに成功。世界最大の気象レーダー建設に情熱を傾けた、官民プロジェクトの「不可能」への挑戦を描く。
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24年におよぶ歴史的難工事の末、完成した「青函トンネル」。最初のパイロット坑である「先進導坑」を掘り抜いたのは、鉄建公団の若き技術者と、トンネル工事のプロ職人74人を中心としたプロジェクトだった。複雑な地層を掘り進む海底掘削工事は、出水との戦いであった。プロジェクトは、試行錯誤の末、岩盤に細かな注入穴をあけ、高圧で特殊なセメントを流し込み地層を固めて掘り進むという新技術を開発する。しかし難工事のなかで死亡事故が続発。昭和44年に起こった大規模な出水事故を全員で乗りきったことが、その後の出水対策を飛躍的に進歩させる原動力となる。そして昭和58年、仲間の遺影が見守るなか、先進導坑貫通の瞬間を迎えた。青函トンネルに人生を賭けたトンネルマンたちの苦闘と情熱を描く。
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世界で唯一、6500mもの深海底を人間の目で見ることの出来る潜水調査船「しんかい6500」。深海には、いったいどんな鉱物資源があり、生物たちが息づいているのか・・・。“海の本当の姿を知りたい”。そのプロジェクトは、昭和39年、潜水艦の建造に長年携わってきた神戸の造船所の片隅から始まった。水温およそ1℃。光はまったく届かず、地上の650倍もの気圧がかかる暗黒の世界、深海。人が乗り込むキャビンの厚さが0.5mm狂っても、安全は保証できない。その頃すでに、諸外国では着々と潜水船の研究が進んでいた。外国に全面に頼るのではなく、自分たちの手で国産の潜水船を作るんだという設計者たちの熱い思いが会社を動かし、そして国を動かしていく。海への夢と憧れを25年間抱き続け、未知なる極限の世界にかけた、技術者たちの挑戦を描く。
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平成9年1月、突然、日本海沿岸を襲った真っ黒な重油。ロシア船籍タンカー、ナホトカ号から流れ出た重油はドラム缶3万本分。被害は日本海側の9府県にも上る未曾有の事故だった。各地の浜は、どす黒く汚れ、向こう5年、海はよみがえらないと言われた。地元の漁師たちにとってはまさに死活問題だった。浜と漁師を救ったのは、バケツとひしゃくで重油を掬い続けた30万人におよぶボランティア。「善意が奇跡を起こした」と世界中で報道されたこの快挙の陰には、ボランティアをまとめるために奔走した地元の青年たちの姿があった。最大の被害を出した福井県三国町で立ち上がったのは、建設会社を営む35歳の長谷川啓治。食料の調達、宿泊場所の確保、作業の指示・・・。長谷川は会社を休み、地元の商店主や青年たちとともに膨大な作業に取り組んでいく。連日の荒天のため、作業は中止が続き、ボランティアと地元の間に確執も生じた。それを乗り越え、人々の善意がわずか3ヶ月で浜をよみがえらせていく。
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携帯電話、モバイルコンピューター。急速に進行するIT革命になくてはならない装置がある。省エネルギーで、軽量。夢のディスプレイ装置「液晶」である。世界で始めて、「液晶」の実用化に成功したのは、シャープの研究所で、日の当たらない場所にいた技術者たち。リーダーの和田富夫はかつて、壁掛けテレビの開発にたずさわり、挫折。管理部門に回されていた。偶然、テレビで実験段階の液晶を見た和田は上司に開発を進言。しかし、プロジェクトに集まったのは、同じように開発に失敗した技術者と何も知らない新入社員たちだった。和田は、メンバーとともにアメリカの大手企業が実用化をあきらめた「液晶表示装置」の開発に打ち込む。そして、1万回を超える執念の実験の末に、電卓の表示装置として、世界で初めて「液晶ディスプレイ」の実用化に成功する。サラリーマン人生をかけて開発に打ち込んだ技術者たちの執念のドラマを描く。
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昭和57年2月8日。日本災害史上例を見ない火災事故が発生した。地上10階、東京でも有数の巨大ホテル、ホテルニュージャパンの火災である。1昼夜に渡って燃え続け、犠牲者33人を出す大惨事となった。この時、炎に包まれ、絶望的と言われた高層階から、66人もの人命が奇跡的に救出されたことは知られていない。命がけの救出活動の中心となったのは、東京消防庁の精鋭部隊、「特別救助隊」の男たちだった。ホテルは欠陥建築で、防火設備はずさんだった。火のまわりが異常に速く、男たちの救出作戦も困難を極めた。隊長、高野甲子雄はある決断を迫られる。消防の世界でも今も語り継がれる、伝説の消防士たちの救出劇を克明に描く。
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オイルショックから、石油の安定確保につながった昭和62年のザグム大油田開発までを描く。昭和48年、日本を悪夢が襲った。オイルショックである。アラブ諸国が一方的な供給削減を発表し、日本中がパニックに陥った。それまでに確保した日の丸原油では、到底足りなかった。不測の事態に対応できる大量の石油を、安定的に確保できるか。それが日本の今後を左右する鍵だった。日本は、アブダビにある、世界最大級の海底油田に目をつける。そこは、石油と水が混ざって存在する特異な油田。多くのメジャーたちが開発不可能と手を引いた難所中の難所だった。送り込まれたリーダーは石油技術者、細井弘。山内肇の愛弟子だった。細井たちは、アラブ人技術者とともに試行錯誤を繰り返し、水と油を見事に分けて取り出す技術を開発していく。日本の血脈、石油の安定確保をかけ、世界最難関の油田開発に挑んだ男たちの壮絶なドラマを描く。
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昭和40年代、脳外科では摘出困難な腫瘍や大量の出血に悩まされ、余命宣言をせざるを得ないこともしばしばだった。人の命を救いたい・・・。開発に立ち上がった若き脳外科医、滝澤利明。「照射すれば正確に患部が切れ、しかも一瞬で血管が塞がり出血がない」レーザーを使った医療機器の開発が始まった。昭和44年、レーザーの大きさは3メートル。しかも使い道がなく故障ばかりする代物で医療機器には使えなかった。開発を託された日本科学工業の竹内一政と東郷隆志ら開発チームは、社運を賭け滝澤とともに開発を続けるが、直進するレーザー光線を医師の手元まで送り、自在に照射することは至難の業だった。手術室に彼らを招き、メスの動きを示す滝沢。しかし開発から3年後、会社は倒産、プロジェクトは頓挫する。その後意外な展開が待っていた。持田製薬に入社した竹内と東郷は、天体望遠鏡にヒントを得てなめらかな動きをするアームの開発に成功、昭和50年9月、ついにレーザーメスが完成する。しかし医療機器として当時の厚生省から認可を得ることが必要だった。昭和54年3月、滝澤は悪性の脳腫瘍を患い余命1年と宣告された9歳になる女の子の手術に完成したレーザーメスを用いて挑んだ。それは女の子の命とレーザーメスの将来がかかっていた・・・。尊い命を救うため、レーザーメスにかけた脳外科医と町工場の技術者達の8年にわたる壮絶なドラマを描く。
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10年に及ぶ内戦が続いたカンボジア。アンコールワットは、クメールの女神たちの顔が潰され、仏像は首が飛ばされ廃墟となった。修復の技術者はポルポト派によってことごとく殺されていた。生き残ったのはわずかだった。「アジアの宝」は崩壊を待つばかりだった。「遺跡の修復に力を貸してほしい。」遺跡保存官の一人、ピッ・ケオは、助けを日本の友に求めた。その男は内戦前、カンボジアの技術者と共にアンコールワットで修復に汗を流した石澤良昭だった。石澤は、アンコール遺跡国際調査団を組織し、石工として並外れた技を持つ小杉孝行の協力を得てカンボジアへ渡った。集まった現地の若者は20人。しかし修復への道のりは、困難を極めた。「伝統的な石工の技を全て伝えたい。」小杉は、日本と同様、厳しい修行を始めた。しかし生活のためと割り切って働くカンボジアの若者たちに、職人の心は伝わらなかった。「一人前の石工になってほしい。」しかし辞めていく者が相次いだ。「12世紀に花開いた、世界で最も優れた文化がここにある」石澤は、内戦で自分の国の歴史を知らない若者達に懸命に教え、皆をひきとめた。アンコールワット再生を誓った日本人とカンボジア人たちが激しくぶつかりあう中で心を通わせ、一人前の石工が誕生するまでのドラマを描く。
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1986年4月26日。旧ソ連ウクライナで人類史上最悪の事故が発生した。チェルノブイリ原子力発電所4号炉の爆発。大量の放射性物質が発生、その多くが風下に位置したベラルーシに流れ、間もなく悲劇が始まった。子供たちに甲状腺ガンが多発し始めたのである。現地の病院で手術を受けた子供たちの首筋には、一生消えない傷がついた。その時、一人の日本人医師が立ち上がった。信州大学医学部の外科医、菅谷昭。父は、夜の往診も厭わない町医者。もっと患者と向き合いたい、そんな思いを抱き続けていた菅谷は、大学教授の座を辞し、ベラルーシに渡ることを決意する。ベラルーシでの菅谷のたった一人での闘いが始まった。やがて菅谷の高い手術技術や、患者との交流に心打たれていく若い現地医師たち。いつしか菅谷のアパートに集まり、勉強会が開かれるようになった。菅谷は、彼らに自分の手術技術の全てを伝えた。さらに菅谷は、手術後もガン再発の不安を抱える患者達の家を一軒一軒訪ね、診察を繰り返した。脳裏には父の姿がよぎっていた。そんな菅谷の活動に共感し、菅谷を支えようと奮闘する一人の男がいた。28歳の若手医師、ゲンナジー・トゥールだった。二人は訪問診療を黙々と続けていた。やがて菅谷たちの努力は、ある一つの奇跡を産んだ・・・。人類史上最悪の事故と対峙した、日本人医師と現地の医師たちの5年半に及ぶ闘いを描く。
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