前漢(ぜんかん)・武帝の時代、西域(さいいき)の国・烏孫(うそん)に嫁いだ漢の公主・劉細君(りゅう・さいくん)が急死した。烏孫は即座に漢に使節団を派遣。その道中、砂漠に差し掛かった使節団は、匈奴(きょうど)の兵に襲われて散り散りになり、一行とはぐれた王族の翁帰(おうき)が出会ったのは、飲み水を探していた旅芸人一座の娘・解憂(かいゆう)だった。見つけた湧き水を汚された解憂は怒って翁帰を追い払うが…。
解憂たちの一座は、ケガをした翁帰を連れて旅を続けていた。翁帰は解憂が大切にしている玉佩(ぎょくはい)を勝手に質入れしようとするが、すんでのところで解憂に奪い返される。その晩、一座の財産を盗もうとした翁帰は、解憂に捕まって手錠をはめられた。一座は敦煌(とんこう)へと向かっていたが、途中、激しい砂嵐に行く手を阻まれ、飲み水が底をつく。解憂は1人で水を探しに出るが水場は見つからず、砂漠で倒れてしまう。
解憂と翁帰は砂漠で匈奴兵に捕まるが、解憂の機転で危地を脱することができた。逃げる際に解憂が玉佩をなくし、解憂には大切な品だと知った翁帰は、1人で捜しに行く。一座は敦煌の町に着くが、匈奴の間者と間違われた解憂は李陵(り・りょう)の軍に捕らえられ、処刑されることに。翁帰も捕まって刑場で解憂と再会、死ぬ前に夫婦にならないとあの世で魂が苦しむと言いくるめられた解憂は、追い詰められて思わず翁帰を夫と呼ぶ。
解憂は李陵の紹介状を携え、楚(そ)王に仕える武将、淮天沙を訪ねる。解憂の玉佩を見る淮天沙(わい・てんさ)の顔つきは、確かに何か知っているようだった。一座は楚王府に呼ばれ、楚王の母親のために敦煌の歌舞を披露。楚王の母親は出し物をとても喜び、楚王は一座に褒美を出す。淮天沙が解憂が持っていた玉佩を楚王に見せると、とたんに楚王の顔色が変わり、解憂の顔を見つめて自分の兄に似ているとつぶやくのだった。
翁帰は烏孫の使者として参内(さんだい)し、直接 武帝に烏孫と漢の同盟維持のため新たな公主の輿入れを求める。翁帰の説得に心を動かされた武帝は、漢から再び公主を嫁がせることを承諾し、王侯貴族の娘の中から和親公主を選ぶことを決めた。楚王の娘 靖君(せいくん)は、和親公主に選ばれることを恐れ、解憂を自分の身代わりとして和親公主選びに行かせるための策を講じる。靖君の企みを察した淮天沙は解憂を守るため…。
靖君の付き添いとして参内した解憂だったが、その歯に衣着せぬ物言いが武帝に気に入られ、図らずも和親公主に選ばれてしまう。旅芸人として各地を放浪し自由に生きてきた解憂は、籠の鳥のような暮らしを嫌い、何とかして逃げ出そうとするが、城門で官兵に捕らえられてしまった。武帝に対して必死に抗議する解憂だったが、叔父の楚王が責められる姿を目の当たりにした時、思わず自分から和親公主になると言ってしまうのだった。
和親公主となった解憂は、王宮で教養や礼儀作法の特訓を受けた後、西域へと旅立つ日を迎えた。花嫁の正装をまとった解憂を武帝と旅芸人一座が見送る。玉門関(ぎょくもんかん)を過ぎた解憂一行は、隊商を率いる馮嫽(ふう・りょう)と出会い、烏孫までの道案内を依頼。その頃、匈奴でも和親公主となった胡姑(ここ)が烏孫へと旅立っていた。匈奴の義律(ぎりつ)将軍は、漢の和親公主が烏孫に到着するのを阻止するため…。
解憂は、烏孫から出迎えに来た翁帰と再会。翌朝、解憂と翁帰が姿を消し、護衛隊長の淮天沙が必死で周囲を捜索するが見つからない。その頃、匈奴の伏兵に襲われた解憂を翁帰が追ってきて助けるが重傷を負ってしまった。解憂は介抱しながら草原で一夜を明かす。匈奴兵に襲撃された解憂不在の和親公主の幕営地では、公主に扮した馮嫽が応戦。翁帰は解憂をつれて烏孫の遊牧民の村に身を寄せる。
侵略してきた匈奴兵を蹴散らした漢軍は、その勢いで匈奴兵が逃げたとされる遊牧民の村に夜襲をかけようとするが、それは烏孫を二分する匈奴派の謀略だった。匈奴兵の火攻めで村民が多数犠牲になり、村に捕らえられていた翁帰と解憂の身にも危険が迫るが、淮天沙の助けもあり窮地を脱する。翁帰と淮天沙、相容れない二人は一騎打ちをすることに。激闘の末、翁帰は川の流れの中に消えていく。
烏孫の都に到着した解憂は住民たちから歓迎されたが、烏孫の昆弥(こんび)(王)は、到着が1日遅れたことを理由に解憂に自害を命じる。しかし、解憂が動ずることなく応対したことで、昆弥は笑って解憂を王宮へと招き入れた。王宮では、1日早く到着していた匈奴の公主・胡姑と昆弥の婚礼が執り行われようとしていた。解憂は婚礼前であることを理由に夫人の席を固辞し、漢の使節として婚礼に列席するが…。
ご購入時から視聴有効期限内、視聴いただけます。 日本国内でのみ視聴可能です。日本国外からはご利用いただけませんのでご注意ください。