子どもの頃から女性になることを夢見ていた未悠。家族へのカミングアウトは高校のとき、大学に入って女装も始めた。大学三回生の春休み、念願の性別適合手術を受けることになった。女性として社会に出るために。映画は半年間に亘り未悠に寄り添った。家族との真摯な話し合い、友人たちとの本音爆笑トーク、教員たちの学内意識改革、臨場心理士の思い、医師の覚悟、LGBT関係者のパートナーズ婚のすすめ…。そこから浮かび上がるのは、摩訶不思議で愛おしい人間の姿あった。
海の自然と先人たちの文化的蓄積に囲まれた季節の移ろいの中に、塩飽諸島本島の人と暮らしを描き、そこに近未来・日本の縮図、そのあるべき姿のひとつを発見する。ひとりの島民の言葉が映画を象徴的に語っている。
これだけのミュージシャンを見逃していたのはメディアの責任かもしれないな…血や国の境界線を歌が超えていく30年、不屈の軌跡
答えはひとつ バランスをとること。自然と人間のこと…須磨から世界へ発信します!
2009年、ゲイの知人から「私たちのような人間は撮らないのか」と問われ、性的マイノリティを俯瞰的に取り上げたドキュメンタリーが今までなかったことを知った。カメラを向け、彼らと向き合うことで「常識の外側で生きる存在」でありながら「他者を排除しない、優劣をつけない生き方」に共感、「自分の中の普通」が溶けていく体験をした。撮影は2012年の淀川河川敷のパーティーから始まり、大阪・神戸・京都、そしてパリへと昇華されて、異形の宴のクライマックスで大団円を迎える。異性装、ニューハーフ、SM、タトゥなどが特異なカルチャーでなく、一般的なファッションやアートとして定着している中、自らの性に忠実・誠実に生きる彼らの多様な生き方に迫った。人間とは?性とは?人と人が繋がるとは?今、新しい感性のメッセージが見えてくる。
母娘が暮らすのは、人が行き交うビジネス街の北浜。荒ぶれるママリンを家に閉じこめるのをやめて徘徊につき合うようになると、ご近所やお店の人の目に留まり、さりげなく自然に助けてくれるようになった。引きこもるのではなく露出系。認知症のママリンと暮らすことが、どうしても避けられないことなら、それをありのままに受け入れるしかない。しかし逆に言えば、介護という制約に縛られる必要もない。ママリンを連れて居酒屋やバーにも行くし、ギャラリーのお客さんにも紹介する。隠すのではなくお披露目系。しかし、その徘徊は尋常ではない。6年間で歩いた距離は大阪/ 東京3往復分。一体どこまで歩くのか…、認知症と健常者の智恵比べ、体力勝負の根性試し。そして、さんざん歩いたママリンも老いには勝てぬで、健常者の勝ちのような…。感情の介護ではなく実験系。そんなちょっと普通じゃない、でも母娘にとっては普通の日々のドキュメンタリー映画。決してお涙頂戴ではない、アヴァンギャルドな映画です。
人は忘れる生き物である。そしてまた、人は忘れない生き物でもある。1995年1月 阪神淡路大震災。神戸市兵庫区は甚大な被害を受けた地区の一つだ。あれから20年、いまだ震災前の人口は戻らず、高齢化はさらに進んだ。「一面の焼け野原、震災は戦災と同じやった」そう語る人もいる。彼らは過去を生きているのではない。今ここを生きている。嘆くのでも恨むのでもない。ささやかなハレとケ。淡々と自らの命を紡ぐ日々。かれらの経験から学ぶことは今しか出来ない。いや、もう十分に遅すぎる。“大きな出来事”を体験した“小さな人たち”は、上から大声で叫ぶのではない。私たちと同じ目の高さから自分にも言い聞かせるように、小さな声で語りかける。一つ一つは何処にでもある取るに足らない出来事かもしれない。しかし、かけがえのない“小さな言葉”は“遠くまで”届く。死者に、未来に届く。そして、静かに強く長く残る。阪神淡路大震災10年目を契機に始まった兵庫モダンシニアファッションショー。12月の本番まで8ヶ月間に亘り、ショーに関わる人々の姿を追った。歳月とは?忘れるとは?変わるとは?日常とは?ハレの日とは?装うとは?そして人が人と生きるとは?正しい答なんて何処にもないのかもしれない。それでも人々は生きる。淡々と、限られた生を、死者たちに与えられた生を。
松尾俊二は、1950年に神戸で生まれた。俊二の運命を決めたのは17歳のとき。女性雑誌に掲載された「ニューヨークで活躍するヘアデザイナー須賀勇介」の記事だった。俊二は世界的ヘアデザイナーを目指しニューヨークに渡り、須賀の弟子となる。10年後に独立し、高級サロンZIBAを展開。ヴォーグやエルなどで、有名ファッションモデル、ハリウッド女優と仕事を重ねた。ニューヨークではゲイを公表し、アメリカ人パートナーと20年過ごす。90年代に入りアジアの時代を予見、ニューヨークを離れる。インドネシアでの苦境を経験後、シンガポールを拠点にアジアに店舗を展開。2008年には、シンガポール政府から日本人起業家として初となるSpirit of Enterpriseを受賞した。2014年、肝臓ガンを発症。診察のため一時帰国した俊二の目に映ったのは、日本の高齢者の色の無い服装と元気の無さだった。その時突然、俊二にインスピレーションが生まれた。高齢者を元気にしたい!Makeover Magicという高齢者のためのファッションショーを発案、シンガポール・東京・神戸…と、世界トップレベルのショーを開催していった。2018年、肝臓がんが膵臓に転移。神戸の実家で最後の日々を迎えることになった。俊二は死に直面しても生きる意味を忘れなかった。死ぬ前にやり遂げること…、神戸でのMakeover Magicの開催、次世代のヘアデザイナーのための本の執筆、そしてドキュメンタリー映画の製作。俊二は死の40日前、田中幸夫監督を自宅に招いた。
大阪市西成区、ここに3年前佐々木敏明さんは、暮らし応援室を立ち上げた。いわゆるホームレスやニートの人たちの暮らし全般の相談に乗っている。単に就労を支援するだけではなく、日々の宿、生活スタイル、健康まで丸ごとの取り組みが必要だ、と考えてきた佐々木さんは、ひと月ほど前から下宿屋を始めた。簡易宿泊施設であるドヤからの脱出を図る試みだ。今日は、ドヤから下宿屋に引っ越すIさんの引越し当日。二人は、身の回りの僅かな荷物を自転車で運ぶ。1996年に発行された少女コミック雑誌に描かれたニシナリのイメージ。そこには「気の弱い人は近づかない方が無難なトコロ」と記述されていた。そしてかつて釜ヶ崎の町と騒動を記録し続けた写真家井上青龍さんの眼差し。西成は、男の町・釜ヶ崎をはさんで南に女の町・飛田遊郭、西には部落・在日・沖縄出身者が多く暮らす地区がひろがり、今に続く様々な社会問題が集積し、露出している。さまざまな人が暮らす町、その奥行きに深さと広がり。こたえはひとつ 排除しないこと。これがやさしくて…むずかしい。「ニシナリだからできること、ニシナリだからできないこと、そんなことがあるのでしょうか、ないのでしょうか、問われているのは、ニシナリではなく、私たち自身なのかもしれない」と映像は語りかけていく。
2021年、自殺者の報道は小・中学生にまでおよび、仕事を失った後もセーフティーネットに辿り着けなかったり、世間体を気にして生活保護を拒否する人、餓死する人が見つかるなど、テレビや新聞では暗いニュースが溢れています。今や子どもまで世間や周りの人々に合わせすぎて生きづらくなっているそんな時代。世間から見ればただのホームレス。アルミ缶集めや清掃の仕事に行き、必要なものは自分で作り、余計なものは持たず2001年より河川敷に住む場所を作り、そして様々なな人が集まる、一貫したきれいな、こじらせない生き方を続けている。さどヤン。撮影期間3年、その中では台風による高潮で何もかも流されるなど予測のつかないアクシデント等が映し出される。しかし主人公のさどヤンは何事もなかったかのように小屋を作り始める・・・。混迷の時代に活きるヒントを与えてくれる普遍性があり、そして人生に正解を求める人にぜひ観て欲しい映画の誕生です。