源頼朝・義経とは従兄弟だが、一族の対立により義平に父・義賢を殺され、2歳の義仲は木曽に落ち延びた。1180年、平氏討伐で以仁王が挙兵。26歳になっていた義仲も信濃で挙兵し、1183年、平家一門を「都落ち」させる快挙で頼朝との「源氏の棟梁争い」に一歩先んじたかに見えた。しかし義仲の栄光もここまでだった。上洛後、後白河法皇と皇位継承問題で対立。一方の頼朝は法皇と手を組み、義仲亡き後の体制を画策するなど暗躍していた。義仲は、後白河法皇や頼朝たちの政治的駆引きに翻弄され壮絶な最期を遂げる。「ぶっきらぼうだが根は実直」な性格で仲間思いの義仲は、「義仲四天王」や「巴御前」など忠義に厚い有能な人物たちに慕われていた。そんな義仲だが、彼の墓の横にはあの松尾芭蕉が眠っている。一体なぜ芭蕉の墓がここに?義仲と芭蕉の意外な関係から歴史を見ていくと…。
天文16年(1547)、信長の13歳離れた妹として織田家に生まれる。「天下布武」を目指す兄の命で、永禄10年(1568)頃、浅井長政と政略結婚するが、浅井家と兄の対立から居城の小谷城は織田軍に攻められ落城。最愛の夫を亡くす。その後、兄の庇護の元、三人の娘、茶々(後の豊臣秀吉の側室・淀殿)、初、江(後に2代将軍 徳川秀忠の妻)と共に暮らすが、天正10年(1582)、「本能寺の変」で兄・信長が明智光秀の謀反により自害。織田家の今後を決める「清洲会議」を経て、娘三人を連れて柴田勝家に嫁ぐものの、翌年、勝家が賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、再び城攻めを受け、今度は夫・勝家とともに自害。享年37。
1184年。義経は精鋭70騎を率い急峻な崖から逆落としを仕掛けた「一ノ谷の合戦」をきっかけに、平氏を滅亡に追い込み、都ではヒーローとして迎えられた。しかし、兄・源頼朝に自害に追いやられてしまう。平氏滅亡という同じ目標に向かっていた兄弟に一体何が?
鎌倉幕府を倒すきっかけを作り、「建武の新政」の立役者・楠木正成だが、謎があまりにも多き人物。現在の大阪府千早赤阪村で独自の商業圏を作り上げた一族の棟梁で、どの権威にも従わない為、「悪党」と呼ばれていたという説や、「御家人説」など出自については様々な説がある。鎌倉幕府の横暴に立ち上がった後醍醐天皇を奉じ、いち早く挙兵した。後醍醐天皇は隠岐島に配流となるが、正成の目覚ましい戦いぶりで「兵法の天才」と呼ばれ、諸国の武士たちも勢いづき、足利尊氏や新田義貞により倒幕が果たされた。しかし、京に戻った後醍醐天皇の新政が始まると、恩賞に不満を持つ者たちは、武士の棟梁として足利尊氏を立て、後醍醐天皇に対して挙兵。正成は、天皇に尊氏との和解を進言するが、逆に尊氏を成敗せよと命じられ、700の兵で10万の尊氏軍と兵庫・湊川で激突し…。
都落ちした平家は、「一ノ谷の戦い」で源義経の猛攻の前に大敗。須磨の海岸から逃げようとする平家の一団の最後にいた一人の若武者、平敦盛は彼を呼び止めた源氏の武者、熊谷直実に勇敢にも戦いを挑む。熊谷は息子と同じ年頃の少年に哀れを感じ躊躇するが…。15歳で散った平敦盛の最期とは?そして彼の死が題材の幸若舞「敦盛」~「人間五十年下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」をこよなく愛した織田信長。敦盛の墓を訪ねると、彼の首を刎ねたある人物との意外な事実があった。それは…!?
1862年将軍徳川家茂の上洛時に警護する「浪士組」として始まったが、その後「壬生浪士組」「新選組」と名を変え、京都守護職の松平容保から尊王攘夷や倒幕を唱える藩や浪士の取締りと京都市内の治安維持を任じられる。1864年、京都三条木屋町の旅籠池田屋に潜伏していた長州藩、土佐藩など尊王攘夷派の志士たちを襲撃し9名を殺害、20名を捕らえた「池田屋事件」で新選組の名は天下に轟いた。暗殺・拷問・内部粛清を繰り返し、京都の町衆を震え上がらせた新選組だが、近藤勇、土方歳三など農民出身者が多く、武士に憧れ剣術の道を選び、武士として認められることを望んでいた。
明智光秀の娘ガラシャ(たま)は、16歳の時に織田信長のすすめで細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。しかし、父・光秀が主君・信長を虐殺した本能寺の変で「謀反者の娘」という運命を背負うことになってしまう。さらに彼女が心を痛めたのは、夫・細川忠興と舅・藤孝が父からの誘いを拒否したことだった。その悲しみからか、その後キリシタンに改宗したガラシャは、慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦い直前の8月25日、夫・忠興が徳川方についたため、石田三成はガラシャを人質にするため、大坂屋敷を取り囲んだ。ガラシャは、自分が人質になれば夫に支障が出るとして、その命を絶った。享年37。ガラシャの墓は大阪のお寺にある。一体なぜキリシタンのガラシャの墓が寺にあるのか?その謎に迫る!
徳川家康が「日本一の兵(つわもの)」と賞した戦国時代最後の武将。彼の死で戦国時代が幕を閉じたといっても過言ではないのだろうか。1615年 豊臣VS徳川「大坂夏の陣」因縁の徳川家康との戦いの前、実は、真田信繁(幸村)の元に家康から内通の誘いがあった。信繁を激怒させたその内容とは一体?夏の陣を迎え、再び相まみえることになったが、すでに豊臣方の敗色は濃厚。そして信繁は決断する。「ならば家康の本陣に突撃し、家康の首を獲るのみ!」信繁は生涯最後、起死回生の大勝負にでた!
「なぜ本能寺の変を起こしたのか!?」信長を謀反で討った明智光秀だが、頼りにしていた細川藤孝・忠興親子、筒井順慶・高山右近、中川清秀など懇意にしていた武将から見捨てられ、ライバル羽柴秀吉との一騎打ち「山崎の合戦」で敗れた。日本史上最大のミステリーともいわれている本能寺の変。光秀は側室を持たず、最愛の妻・煕子は光秀の良き相談相手だったという。しかし、本能寺の変の6年前に煕子を亡くしていた光秀。他に相談相手がいなかったことで、発作的に謀反を起こしたという説もある。光秀は、いったい何を望んで本能寺の変を起こしたのだろうか…。
本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀。しかしその証である信長の首を手に入れることはできず、これが原因で細川藤孝などが味方しなかったともいわれている。山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れた光秀はなぜ信長の首を見つけられなかったのか?そこにはある僧の存在があった…。
徳川家康がその死を最も悲嘆したという【大谷吉継】(1565-1600)。豊臣秀吉に仕えていた吉継は、秀吉の死後、豊臣家に巻き起こった数々の問題に家康と連携し対処していく。家康と吉継の信頼関係は絶大だった。そして1600年、吉継は家康に従い上杉討伐に向かうが、その途中で三成のいる佐和山城立ち寄つた。そこで、三成から「家康の討伐計画」を打ち明けられる。吉継は猛反対するが、9日間悩み抜いた末にある決断をする。「三成との友情を重んじ、負けるとわかっていた関ヶ原の戦いに挑んだ義に厚い武将」として今も人気だが、果たして友情だけで三成に組したのだろうか?あの9日間、吉継は何を考え、覚悟して決断したのだろうか…!?
父は浅井長政、母は信長の妹お市で、三姉妹の長女。信長と敵対した父は自害。母と三姉妹は信長の庇護を受けるが、その信長も本能寺の変で自害…。母が嫁いだ柴田勝家は、秀吉との戦さに敗れ、母は勝家とともに自害する。幼少期から悲劇が重なる茶々(淀殿)に、さらに運命のいたずらが…。二度の戦で両親を自害に追い込んだ仇である豊臣秀吉の側室とされてしまったのだ。しかし、秀吉の世継ぎ・秀頼を産んだことで、淀殿の運命は大きく変わる。秀吉の死後、幼い秀頼の後見人となり豊臣家の全権を握ることになったのだ。しかし、慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」が勃発。石田三成からは、大将として秀頼に出陣してほしいと要請をされたが、秀頼はまだ7歳。我が子を守りたい一心で秀頼の出陣は認めず、三成は大敗。結果、徳川家康が強大な力を持つようになり、ついに江戸幕府が開かれ、徳川と豊臣の立場が入れ替わってしまう。その後、大坂城には全国の浪人たちが続々と集まり、豊臣家は「反徳川」の旗頭として担ぎ上げられてしまう。最期は「大坂の陣」で息子秀頼とともに自害。関ケ原、大坂の陣での決断が自らの悲劇を招いてしまったという、まさに戦国の時代に翻弄された生涯だった。
主君の切腹と藩の取り潰しで揺れる赤穂藩。「籠城か?」「切腹か?」「仇討ちか?」藩内の意見は分かれるが、老中の大石内蔵助の望みは「お家再興」だった。しかしその望みも消え、ついに決断する。「主君が切腹なら、吉良上野介も処罰を受けるのが掟。幕府が応えない以上、我々が実力をもって喧嘩両成敗の正義を実現しなければならない。おのおの方、討ち入りでござる。」いつ敵討ちを果たすのか!?待ちに待った江戸の庶民たちを熱狂させたのは、戦国の時代から100年、すでに忘れつつあった時代での「武士の本懐」を貫く彼らの行為だった。
『腐敗した江戸幕府を“世直し”大塩平八郎』江戸末期の大坂町奉行所の与力だった平八郎(1793-1837)は、敏腕与力で名をはせたが38歳の若さで辞職。当時、天保の大飢饉で米の値段は6~7倍に跳ね上がり、餓死者は一冬で5千人にも達していたが、腐敗しきった幕府は無策のまま放置していた。平八郎は何度も奉行所に窮状を訴えたが無視され続け、ついに死を覚悟の上で世直しを決意。弟子や貧しい農民とともに反乱を起こす(大塩平八郎の乱)。幕府の直轄地で元役人が反乱を起こしたことで、幕府に大きな動揺が走る。そして平八郎は計画通り、用意していた火薬に火をつけ爆死という壮絶な最期を遂げる。そして、火の海にされた大坂の庶民ではあったが、自分たちのために戦った彼を愛し、立派な墓を建てている。
近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺された坂本龍馬。誰が暗殺したのかは日本の歴史の最大のミステリーといわれるが、その龍馬の墓にはある謎があった!!
1993年に日本で初めて世界文化遺産となった姫路城。2009年から2015年まで大天守保存修理工事(平成の修理)が行われ、白漆喰総塗籠造りの白壁が創建当時の姿に蘇りました。別名「白鷺城」の名のごとく白壁が映える姿は、四方それぞれの異なった美しい姿を見せます。5層7階の大天守を中心に、多くの建物が1609年に建てられ400年以上の時を経てなお創建当時の姿を今に残す、世界遺産でもある国宝・姫路城を訪れます。
四国屈指の名城・松山城と、「石の要塞」として知られる丸亀城を紹介します。松山市内、勝山山頂に本丸を構える松山城は、地形を活かした縄張りと高石垣によって、完璧な防御体制が整えられています。21もの重要文化材が残る城内は、まさに見所満載です。丸亀市内の小高い山に、高さ60mを超える石垣によって守られた城があります。「扇の勾配」と呼ばれる美しい石垣や、シンプルだけど見栄えにこだわった天守が魅了します。
2015年に国宝に指定された松山城。現存12天守の中では5番目の国宝指定となりました。高欄付きの廻縁のある望楼式天守は1611年に完成。歴史と風格を漂わせる趣を持ちます。桃山風の城は、狭間や石落しなど実戦本位の無骨な城郭でもあります。備中松山城は現存12天守の中で唯一の山城。最も高い標高430mにあります。二層二階の典型的な山城ですが三層に見えるようにデザインされ、囲炉裏や装束の間など、珍しいものが設けられています。国宝である松江城と、現存12天守の中で唯一の山城である備中松山城を訪れます。
本丸の建造群が完全に残る貴重な高知城と、平和な佇まいを残す宇和島城を紹介します。高知藩山内家の城として、三層六階、高欄付きの天守が残ります。そして、それに付随する形で現存する貴重な本丸御殿が、江戸時代へと誘います。宇和島藩伊達家の宇和島城は、明るく開放的な造りとなっていて、他の戦国の城とは異なる趣を与えてくれます。
「現存12天守」の中でも特に古い時代に建てられた「犬山城」(国宝・愛知県)と「丸岡城」(重要文化財・福井県)を紹介します。江戸時代の豪華絢爛な城とは趣が異なり、実践的であることが重視され、武骨で質実合憲な佇まいが、戦国の緊張感を想像させます。
国宝・彦根城は彦根市のシンボルとして築城400年を越す歴史を持つ名城です。飾り金具付きの唐破風など、数多くの破風を持つ姿が特徴的です。京都に近く政治的にも重要な地において、徳川の権威と威光を示すにふさわしい姿が今もなお多くの人を魅了します。城跡全体が国特別史跡に指定されている貴重な文化遺産を紹介します。
長野県の中央からやや西に位置する松本市は、戦国の世においては南北はもとより東国と西国の間に立ち、戦国武将たちの天下統一に向けた戦略の上で極めて重要な位置にありました。現存天守である国宝・松本城を訪れます。
安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守が国宝に指定されている松本城をはじめ、戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、北条氏の本拠地として有名な小田原城、鶴ヶ城の名前でもお馴染みの東北の名城、若松城をセレクト!ナレーションには、声優界きっての歴史マニア遠近孝一を起用し、収録した映像が登場です!